2006-07-22

祇園精舎ふたたび

祇園精舎の鐘の。諸行無常の響あり。で始まる平家物語だが物理的には鐘の音は鐘の形状で決まるので、諸行無常の響はしない。でも諸行無常に聞こえる。どうしてだろう。それは同じ鐘の音なのに異なった音に聞こえてしまう人間のほうが変化するからだ。ということを書いたのは、写真を撮り始めた頃か。 今日はこのことを改めて感じさせる事があった。

博士号を取ったら研究職に就かなければならない、研究職でなくても就職しなければもったいないという意見を聞いた。理由は博士を取るためには、研究費が数千万以上かかるからというものだ。 気持ちはわかる。彼の言っていることは非常に理解できる。 実際理系の実験系では数千万ではきかないだろう。数億円になってもおかしくない。 でもこの意見には反対だ。博士号を取ったら主婦(夫)になるという職業選択の自由を奪われるのか? これは譲れない。前述の意見を表明したのは私の先輩だが、憲法を振りかざして本気で応戦した。

水かけ論になったし、色々煽って話を聞くと、得体が知れん(だが極めて一般的な)しがらみを感じる。そこで、どうして私は反対できるのだろうかと冷静に考えてみた。 そこで得た結論は、同じ鐘の音でも今日聞いた音と、明日聞く音が同じであるという自信が無いからだろう。 来年はこの職を辞めて違う業界に行っているかもしれない。 だからこの先の事を、得体の知れないが一般的なしがらみから拘束されたくない。 そういう思いが、私を本気にさせたのだろうか。






<< Home

このblogは、http://www.argv.org/~chome/blog/noisefactory/に移転しました。

This page is powered by Blogger. Isn't yours?

Subscribe to Posts [Atom]